ほったらかしで乱れ咲くダリア畑に、自然回帰したホッとする開放感

ぐんまフラワーパークでチューチュートレインを撮った後、大胡ぐりーんふらわー牧場に向う途中、松並木の傍で乱れ咲く花畑を見つけた。小さなダリア畑のようで丸太の太い杭が点々と立っていたが、ネットやロープもなく支柱の役目を果たしていなかった。

 ほったらかしで自然回帰した群生するダリア畑、といった感じだった。

 なので、茎は倒れて地を這いながら枝を地面一杯に広げ花々を咲かせていた。それが凸凹した花の土手のようで何とも自然な感じで、撮らずにいられなかった。

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 支柱の役目を果たさない丸太の杭。その傍らで横たわりながら地を這うように咲くダリアの花に、開放感のようなホッとするものを感じていた。

 これは、ぐんまフラワーパークの支柱で支えられたダリアの花の姿とは真逆な光景でもあった。

 フラワーパークのダリアは、支柱やネットやロープに保護されながら美しいダリアの花を咲かせている。保護されて立っている茎。 鑑賞用の美しい花の代償として、重みで自立できない茎。支柱を失えば、ここと同じ運命になるのは、明らかのようだ。

 こうならないために、人手をかけて端正に手入れをしている訳だが・・・。

 今の心境は、皮肉なことにほったらかしで自然に近いダリア畑に、より共感している。これは、どういうことなんだろう?

daria145.jpg  倒れた茎から伸びた枝や花は隣の茎の枝や花と入り混じって赤や紫の花を咲かせている。

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 白いダリアも、同じ様な姿に見えた。

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   青々とした雑草を背景に赤いダリアを逆光で、パチリ。

 自然の厳しさに晒されながら自立しようとするありのままの姿に、共感や開放感のようなホッとするものを垣間見たが、これは、心の奥底にある懐かしさや郷愁のようなものではないのか?

 誰にも、こんな共感を伴ったホッとするような癒しを求めている一面があるはずだ。

 こんな、懐かしさや郷愁を感じ、ホッとする癒しを、ステンドグラスで作れたら、と想うのだ。

 また、フラワーパークのダリアの素晴らしさも忘れられない。

 フラワーパークの場合、来園者が、望む"美しいダリアを鑑賞し楽しさを満喫しリフレッシュしたい"ニーズに沿った花づくりだろう。

 久しぶりの来園者が、新鮮な花に"わぁ~"と驚き歓声を上げる様なシーンがペルソナ像にある気がしている。このペルソナ像には、久しぶりの訪問で見飽きていない、という意味も込められている。

 他方、私を含め頻繁に訪問する常連者は、見飽きてしまうとか、見慣れたとか、つい口にしてしまう。

 美しい花でも、見続けると見飽きた目に陥って行く。これは、花のせいではなく、常連者の鈍感になった目によるものだろう。しかし、これも、別な視点では、大事な長所になっている。

 ならば、お客様がステンドグラスを見る頻度と見飽きてしまう相関関係が気になる。

 また、出来るだけ見飽きないものとは、どんなものだろう?

 

 ときに、ハローグラスでは、花図案に始まるステンドグラス加工品の美のおもてなしで、癒しや感動サービスを提供し、楽しくて心健やかな生活を応援する感性ビジネスを考えている。

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投稿日:2016年10月17日